1977-06-05 第80回国会 衆議院 外務委員会 第24号
○寺前委員 私はそういう問題を厳密にしておかなければ——今度の交渉か終わった後でソヴィエト側が出しているところのモスクワ放送を先日外務省からいただきました。これにはこういうふうに書かれています。「きのう、交渉のいちばん最初にソ連側が提案した草案を基礎とする協定文が調印された。この協定文はなんら大きな変更を受けなかった。相互の利益が考慮されていたからである。」
○寺前委員 私はそういう問題を厳密にしておかなければ——今度の交渉か終わった後でソヴィエト側が出しているところのモスクワ放送を先日外務省からいただきました。これにはこういうふうに書かれています。「きのう、交渉のいちばん最初にソ連側が提案した草案を基礎とする協定文が調印された。この協定文はなんら大きな変更を受けなかった。相互の利益が考慮されていたからである。」
ソ日協定が締結できない、したがってソヴィエト側の漁ができない、これ以上だめですよということをわれわれが言った場合には、第二条に基づいて、すでに協定を結んだ日ソ協定の漁獲量や区域の問題まで含めて決めた内容、ここに影響をもたらすということにこれはなっているのか、なっていないのかということを聞いているわけですよ。
○渡部(一)委員 問題は、第一条における「共和国連邦沿岸に接続する海域」というこの表現は、ソヴィエト側の最高会議幹部会令等において表現されている表現と同じものであって、それを明らかに意識して、それを引用することによって次の交渉に役立たしめようという考え方かあってわざわざこういう表現をとられておると思いますが、そうじゃないのですか。
これが当時の日本政府を代表して鳩山、河野、松本三氏によって署名され、ソヴィエト側からはブルガーニン、シェピーロフの二人によって署名されている。
もう一つは批准の問題で、アメリカはやっと難航の末上院の本会議も通ってオーケーになったと思うのだが、ソヴィエト側はどうなっているのか。アメリカは批准を了したと思うのだが。それから、イギリスはこれも難航をしている。ソ連のほうも黙っている。せっかくあれだけ苦労して結んでおいて、まだ米英とソヴィエトとの間の領事条約が発効していない理由は一体どこにあるのかちょっと不思議なんですが、その点の御説明を承りたい。
重光外務大臣のモスクワ交渉の際において、ソヴィエト側から十億ルーブルの貿易計画が提案されたのでありますが、これは昨年の実績の約十五倍に当る大きな数字であります。ところが、この貿易の計画に対して、石橋通産大臣は実現が困難だと答えておりますけれども、これは石橋さんが間違っているのであります。なぜか。日本は、今日、中ソとの自由な貿易が許されておりません。
ソヴィエトはソヴィエト側で衛星圏内に向つて少しでも逃さんように、防衛力を固めるという理由の下に戦争に使おうと思つて必死になつて工作をやつておる。アメリカ側もアメリカ側で一つ味方を引付けようと思つて同じようなことをやつておる。そういうことをあなたはちつとも知らそうとはしない。そういうことはありませんと言つております。が、いつでもそういう危険のあることは誰でも言いつこない。
どちらをというのではなくして、これは一つの政府なり或いは他の政府なりを援助するとか或いはその間の軍事その他の援助というのではなくて、朝鮮の国民に対する、非常に困つておる国民に対する援助であり、こういう国民に対する援助というものは、できればどこへでもやり得るものであることは、例えばアメリカが共産政権とは非常に反目しておつた当時、第一次欧州大戦のあとで、フーバー・コンミッシヨンというのがソヴィエトに行つて、ソヴィエト側
この場合にあとの時期には将校もソヴィエト側から労働を課せられていたというわけですか。
○中野重治君 それはソヴィエト側からの命令でしたか。
ソヴィエト側の……
その裏が、一貫して吉村隊長を支持して、そうしてすべてをソヴィエト側の責任として、敵本的な宣傳を行うという意図にある。而も軍國主義的な反省、封建主義に対する反省というものは、すべて抹殺しようとする。こういう意図が明らかであるのであります。 こういう事実からして、私共が公平に解釈いたしまして、これらの人々が吉村氏を何が故にこれ程庇うか。
○津村証人 ソヴィエト側に対して……
○津村証人 その点に関しましては、吊し上げとかしうことはなされませんけれども、ソヴィエト側がいろいろな状況をそこから聽取して、そうしてソヴィエト側がそのような容疑者として残すという者が五十数名あつて、それが全部帰つたということをこの前言つたのであります。
○津村証人 細川君がソヴィエト側に対して投書したという、そういう内容について民主グループも檢討いたしましたし、又勤務中隊も檢討いたしましたけれども、この内容については全くことは事実無根であつたということをはつきりと確認いたしまして、ソヴィエト側にこれを報告いたしました。
爾後は只今申上げましたようなソヴィエト側の新聞の外は我々の伺い取るものはなかつたのですが、二十一年の暮に東京法廷に証人として喚ばれました瀬島中佐という者が帰つて來まして、それがこちらの状況を知らして呉れました。それから昨年の十一月頃にモスクワからこちらの收容所に変つて参りました者がモスクワの方で得た日本の状況を話して呉れました。
從つてあとの八割を獲得するのが民主グループの任務であるということが、捕虜のために発行されているソヴィエト側の新聞に載つておりました。でこの大体反動というものの主力は降されたわけでありますから、この一割はないわけだ。
ところが結局そういつたことは、我々が提出した事件は勿論ソヴィエト側としてもそんなものを取入れることはできない、そういうふうになつた。